ロードレースを支える人々 その2
ホンダベトナム・コハラRT アドバイザー 鎌田悟(かまださとる)さん
酷暑の日もあったが、被災者が出るほどの天気の急変など、全国的な天候不順だった夏の終わり、全日本ロードレース第5戦が開催されたモビリティリゾートもてぎも、天気は安定しなかった。8月30日、前日から断続的に降った雨のせいで、路面にはウエットパッチが残る決勝日のJ-GP3クラス、15番手のスターティンググリッドに、ベトナムからやって来た14歳のレーシングライダー、ゴー・グェン・ヴィエット・トァンが、ホンダNSF250にまたがり並んでいる。
本来なら、シーズン開幕戦の5月のSUGOラウンドから、全日本選手権に参戦する予定だった。だが開幕前のテスト中に負傷し、事実上、ライダーにとって初の全日本での出走となった。その周囲には、日本のレーシングメカニックの重鎮であり、チーム監督としても長い経験を持つ小原斉(ひとし)さんがいる。その小原さんが全幅の信頼を寄せるメカニックも二人いる。そして、このチーム、ホンダベトナム・コハラレーシングのアドバイザーでありコーディネーターの、鎌田悟(かまださとる)さんが、若いライダーを気遣いながら、そのそばに立っていた。

10時30分、一周のサイティングラップを終えた25台のJ-GP3マシンが、モビリティリゾートもてぎのスターティンググリッドに戻り、レッドシグナルが消える。ゴー・グェン・ヴィエット・トァンのマシンは、チームスタッフが見守るなか、中団グループで1コーナーに飛び込んでいった。
埼玉とベトナムを往復するプロジェクトとの出合い
鎌田さんは20代のはじめのころ、岩手県から上京し、アルバイトをしながら、埼玉の桶川スポーツランドに、数日おきにレース仕様のNSR50を持ち込んで練習走行をする、レースにあこがれる若者だった。同じ時期に、家庭の事情で父からサーキットの経営を引き継ぎ、鎌田さんと同い年の21歳の若さで、桶川スポーツランドの代表に就任したばかりの松崎彩子(さいこ)さんから、「うちで働けば?」と、誘われ、ほとんど即答で運営スタッフとして加入することになったという。2002年のことである。
実直で、物事に対する創意工夫もある鎌田さんは、通常の練習走行の運営からレースの主催まで、精力的に業務をこなした。レーシングライダーとしてのキャリアも確実に積んでいき、全日本選手権に登りつめ、GP125、ST600、J-GP2と、各クラスで活躍したが、レース中の接触事故で負ったケガのため、思うような走りができなくなり、2013年に引退を決意した。その後は桶川スポーツランドのスタッフ、そしてインストラクター等の業務に勤しんでいた。
そんな鎌田さんが、ある大きなプロジェクトに参入することになる。
「自分が桶川スポーツランドの業務の傍ら、以前所属していた、エンデュランスレーシングチームの紹介だったのですが、『ホンダのベトナムの現地法人が、ベトナム国内に本格的なサーキットを作り、レーシングライダーも育成するというプロジェクトを立ち上げるので、人材が必要だ』という話でした。自分は、代表の松崎が桶川スポーツランドの経営を引き継いだころからスタッフとして働き、コースの運営やオフィシャルの業務を学び、レーシングライダーとしてもキャリアを積んできました。エンデュランスさんは、『コースを作る、運営する、走るのを教えることもできる。必要なノウハウをすべて持っている。これ以上の人材はいない』と、このプロジェクトに自分を推薦してくれました」
桶川スポーツランドの業務を並行して行なうということを条件に、鎌田さんはホンダベトナムの、レーシングアドバイザー、そしてコーディネーターとして就任する。埼玉県とベトナムを往復する、忙しい日々が始まった。
「2015年に初めてベトナムに視察に行きました。サーキットの予定地は、樹木の伐採もこれからという状態で、更地にもなっていませんでした」

最初は驚いた鎌田さんだったが、翌月には予定地は更地になり、鎌田さんが設計した、『桶川スポーツランドのレイアウトを踏襲した1.3倍くらいのサーキット』の建設は急ピッチで進んだ。並行して、サーキットの職員の希望者を集め、運営やコースマーシャルのレクチャーを鎌田さんが行なった。本当に何もないところからのスタートだった。
「ベトナムは2輪レースの未開の国で、社会主義国家でもあり、サーキットが完成しても、レースのような競技、イベントを、国が承認しないと開催ができないんです。ハノイの官庁に行き、省庁の役人に説明も行ないました。もちろん日本のMFJのような2輪レースのライセンスを発行する団体もないので、ベトナム国内の自転車競技のフェデレーションのサブグループのような形で、『VCMF』(ベトナム・サイクリング・モーターサイクルスポーツ・フェデレーション)という団体も立ち上げました」
翌2016年、鎌田さんの尽力もあり、ベトナム、ホーチミンの近くにサーキットが完成した。ライダーオーディション(セレクション)も行ない、数人ではあるが、ベトナム初のレーシングライダーの候補生が誕生した。

「エースとして、カオ・ベトナム(国名ではなくライダーの名前)というライダーを育てました。トレーニングを重ねて、ARRC(アジアロードレース選手権)や、近隣国のTTC(タイ・タレントカップ)に出場し、2019年に、カオはTTCでチャンピオンになりました」
ところが2020年、全世界的なコロナウイルスの猛威が、モータースポーツの世界にも影響をもたらす。
「世界のあらゆるカテゴリーのレースが休止。私もベトナムに通うことができなくなりました」
何もないところから、サーキットを作り、ライダーを育成してきた、ホンダベトナム、そして鎌田さんの活動は、一旦ゼロになってしまう。
2022年にホンダベトナムはレース活動を再開、だが、練習やレースができなかったベトナムのライダーのスキルは下がり、コロナ禍の影響でレースの関係者はほぼ解散状態になり、鎌田さんが建設に尽力したサーキットも運営を停止してしまった。そこで鎌田さんは、今度はベトナムからライダーを桶川スポーツランドに招き、トレーニングを試みる。
「小椋藍や荻原羚大ら、国内の有力な若手にも来てもらって、一緒に練習しました。とても高い効果があったと思います」
その後、ホンダベトナムのライダーたちは、ARRCで再び頭角を表し、IATC(イデミツ・アジアタレントカップ。現イデミツMoto4アジアカップ)にも進出することができた。
エースライダーのスーを全日本へ

やがて、鎌田さんは一人の少年ライダーと出会う。ベトナムでスタントライダーをしている父を持つ、ゴー・グェン・ヴィエット・トァン、ニックネームは『スー』だ。
「2026年シーズンを前に、スーをエースライダーとして、目標を明確にしました。Moto4アジアの秋のセレクションに合格し、20247年はMoto4アジアライダーとして走る。レベルアップのために、ホンダベトナムとして、スーを全日本にフルエントリーさせたい。そこで相談したのが小原さんです」
小原斉さんは、鎌田さんがライダーだったころから、レースに取り組む姿勢を高く評価しており、気にかけていた。そして今回の鎌田さんからの打診を快諾。ジョイントが実現した。チーム名は、ホンダベトナム・コハラレーシング。
「小原さんがチームを見てくださる、こんなに心強いことはありません」


迎えたもてぎのJ-GP3の決勝レースは、飯高新悟、知識隼和、若松怜、富樫虎太郎らの激しいトップ争いが展開された。スーは中団グループで奮戦。なかなか順位を上げられない。残り3周で若松が転倒。トップグループの10代の若い3人のライダーは、最終ラップの最終コーナーまで順位を争い、知識が初優勝を決めた。スーは、バトルしていたグループを抑えてチェッカーをくぐった。日本の幾人ものトップライダーや、ベトナム以外のアジアの国からもライダーが参戦する激戦のJ-GP3。その初めての決勝レースを、スーは12位(正式結果は11位)で終えた。



レースの後、チーム監督の小原さんにも感想を聞いてみた。
「スーは春先の開幕前のテストでは、3番手のタイムを出すぐらい好調でしたが、ケガをしてしまいました。テストのときの印象と比べると、だいぶ慎重な感じでしたが、ライダー、チームにとって実質的な開幕戦を無事に終えてほっとしています。チームの目標としては、スーがMoto4のセレクションに合格するだけでなく、その先のためにも来季はそこで活躍するようになること。今日トップ争いをした3人のMoto4経験者のライダー、あのレベルに、全日本の残りの2レースで少しでも近づきたいですね」
ゴールの瞬間は完走を喜んでいた鎌田さんも、今回のレースを冷静に分析する。
「無事完走して、ポイントも獲得しましたが、中団で『泥試合』を演じてしまった。その先のグループを走るポテンシャルを、スーは持っているはずです。やはり今日のトップ争いの3人に追いつくことが、ベトナムから世界に通用するライダーを育てるというテーマにおいても、当面の目標です」

全日本選手権の後半残り2戦、そしてその直後には、マレーシアでMoto4アジアカップのセレクションがゴー・グェン・ヴィエット・トァンを待っている。ホーチミンの近くの、何もない土地に鎌田さんが立ってから11年。ベトナムから世界に通用するライダーを育てるという戦いは、この秋に佳境を迎える。

写真/赤松 孝、市川 拓
写真提供/鎌田 悟